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ワーホリに行くことを決めるまで

こんにちは!映画好き看護師です。このブログ内では主に映画情報と、私のカナダワーホリに行くにあったての準備についてや渡航後の様子について発信していく予定となっています。それにあたり、まずはどうしてワーホリに行くことにしたのか、キャリアなど悩んだこともお話ししたいと思います。

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「ワーキングホリデー」に興味をもったきっかけ
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退職のタイミングで試みるもコロナ禍で断念
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現職場での先輩の後押し
目次

「ワーキングホリデー」に興味をもったきっかけ

私は病棟経験3年2ヶ月、派遣看護師1年の現在5年目看護師です。まず、私はそもそも看護師になるつもりはありませんでした(え!笑)

うちの親は友人も認めるほどの過保護で厳しい親だったのですが、高学歴の父でも会社の景気に左右され苦労した経緯もあり、資格を持ち安定した職業に就くことを望んでいました。そのため私の兄二人は警察になり、私自身も中2の志望高校を考える段階で母親から「警察になるか看護師になるか選びなさい!」と怒られたのを覚えています。私は元々絵を描くことや想像することがとても好きで、一番上の兄の結婚式に参加した時の印象から(一番上の兄とは10個離れています)ウェディングプランナーに興味がありました。また、同時期にKPOPにハマった影響もあり韓国に限らず海外の文化にとても興味があったため、他国と関わる機会の多い職業に就きたいと漠然と考えていました。そんな中での母親からの究極の二つの選択肢!警察になった兄からは、大変な仕事であるために妹にはやって欲しくないと言われたため必然的に看護師の道が決まりました。反抗したものの、今思えばやりたくない!こんなにもこっちの仕事がしたいと説得し押し切ることもできたかもしれませんがそこまではしなかったので、そこまでの気持ちだっただろうと思いますし、看護師になってみて案外自分に合ってるかもなと思うこともあります。母も適当に選択肢を出したのではなく私にやれると思って選択肢を出してきたんだろうなあと思います。

そんなこともあり、海外に関わる仕事、という漠然とした希望の職業から遠ざかり落ち込んでいた私に二番目の兄が「ひとまずお母さんの言うとおりに看護師になってみていいと思う。看護師になったうえで海外と携わることが出来る仕事もできるようになると思うよ」と言葉をかけてくれたのをとても覚えています。(感動してめちゃ泣きました)

そして看護専門学校に進学し、系列病院にて勤務。忙しいし、他の看護師の知り合いにも驚かれる薄給で、何回も辞めたいと本気で考えました。私の専門学校の学費は3年間系列病院で働くことで奨学金が無償になる御礼奉公制度があったので、3年経ったらやめる!と決めて働きました。2年目の4月の時点でもう3年目の3月で辞めたいというのは決めていたので、師長さんとの面談でもその旨は伝えていました。

そこで、あれ、もしかしてこれって海外にいくチャンスなのでは?と思ったわけです。詳しくは当時知りませんでしたが、ワーホリの存在は知っていました。私は語学力の向上というよりは、とにかく海外に住んで現地の生活であったりいろんな文化の人と関わりたいという気持ちの方が多かったのでそこでワーホリに行くことを決めました。

退職のタイミングで試みるもコロナ禍で断念

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3年目の夏、具体的な話を聞くためにワーホリのエージェント(EF)と面談することになりました。そこで、カナダとオーストラリアはコネクションがないと行けず、今の所行けるのはイギリスであるとの説明がありました。ワーホリで行くなら治安のいいカナダかオーストラリアかと決めていたので、そこでなんと泣く泣く断念。あとからちゃんと調べればコネクションがないと絶対無理なんてことはなかったし、実際に今の職場の先輩はワーホリに旅たちました(泣)

現職場での先輩の後押し

3月でやめるはずが、人手が足りないため3月はお願いだから勘弁してほしいと師長さん、看護部長から話があり、なんやかんやありましたが師長さんにお世話になったのでボーナスももらえるしいっか、と6月退職にすることになりました。当時の私のプランとしては、本当に慌ただしい病棟業務に嫌気がさしてしまったので派遣を2ヶ月ほどして秋口からいいなと思っている病院での勤務を考えていました。その病院に通いやすく実家とも近い場所に引越し、働き始めたのですがここでさらに予想外の展開。派遣の給料が良すぎる、、!笑 3年目の12月の給料19万だった私(夜勤フルでして残業もした)には本当に魅力的でした。まあ、看護師の話はまたおいおいするとして、、。業務内容も楽で職場の関係も良く(お金と時間にゆとりがあると人間は豊かなんだと思い知りました)、これを2ヶ月で手放すには惜しくなってしまったのです。笑 そして、派遣にはフッ軽がやはり集まりやすいのか副業をしていたり、ワーホリやアメリカの看護資格を取得しようとする人がいたりとアクティブな人たちばかりでした(ここでワーホリに全然行けたことを知る)。もう病棟なんて辞めだ!休憩休憩!と思う反面、まだ3年と少ししか病棟経験がないことに物足りなさを感じたりまだ頑張って病棟で働いている同期をみたりするとワーホリに本当に行くべきかどうか悩みました。一度急性期を離れると戻りづらいと言われているし、、など。それでも、先輩たちは口を揃えて『絶対に行きたいと少しでも思ってるなら今行ったほうがいい!!』と声をかけてくれました。そこで、給料も良くて貯金もしやすい環境であり、定職についていない今がチャンスだと思いワーホリに行くことに改めて決めました。今の職場がコロナ関連の職業でこの給料がいい期間はずっとは続かないので、稼げるだけ稼いで出発することにしました。そして年が明け、「具体的にいつ出発か決めないとこのまま日本で働き続けてしまう!」と思い2023年の12月出発にすることにしました。そして、今に至ります!

これが私がワーホリに行くことを決めるまでの経緯になります!

あれだけ反対していた両親はというと、、。

高校の志望校で職業を決められていたのは、お金も関係していました。警察になるなら商業高校、看護師になるなら自分の好きな公立高校、と最初は決まりがあり(入試前日に私が飼い犬と遊んでて母はヒステリックになってたことも)、高校卒業後も大学に進学するお金はないからと専門学校になりました。まあ国公立に行けるほどの賢さも私にはありませんでした笑

看護師の方なら私もそうだった!となると思いますが、課題に追われ、実習終わりは風呂場で寝てしまう、などの生活を送り、時には目を真っ赤にして家に帰った日もありました。そして奨学金があり、御礼奉公で学費が実質無料になる勤務先に就職し、そこでたくさんの苦労があり、そのことも両親はわかっていました。そして、高校生の頃どうしても海外に行きたかった私は市の取り組みで日中韓の交流イベントがあり、そこに参加することを決めました。無償で韓国に5日間行けて、文化に触れることができるというものです。ただこれは市に小論文を送って、その中で選ばれるというものでした。そのため私は現代文の先生に何回も添削してもらって小論文を作成し、無事韓国行きのチケットを手にすることができたのでした。もちろん、そのことも両親はよく知っています。

年が明けてすぐにエージェントとの面談を組んでもらい、12月出発に決定したのですがそのことを母に報告した時には「そうなんだ。そろそろ行くんじゃないかなってお父さんとちょうど話してたの」と言われました。さすが、母、エスパーか?

私が海外に興味があったことは前述のとおりで中学生の頃から知っていました。私はマイペースでいろんなことに興味があって、高校の時の異文化交流会も自分なりに努力し、両親の言うとおりに看護師にもなったので、きっと両親はいつかこうなるとは考えていたのだと思います。私の家の普通で考えれば、系列病院の希望勤務先で第3志望に関西の病院(私は関東在住)にしただけでしこたま怒られたくらいですから、絶対に海外で一人で一年間暮らすだなんて許されるわけがなかったんです。でも両親も英語を学ぶのは今後のためにもなるし、とすんなり受け入れてくれました。

最初から何でも自由にしていいと言う家庭だったらもっと海外への道は近かったと思います。けど、看護師の時間を経た自分のことも気に入ってます。そんな私がどんなワーホリ生活を送るのか、自分自身楽しみです!

さて、カナダ生活においてのプロローグとなる今回の記事、だいぶ長くなりましたが、これからたくさんのことを自分の備忘録として、皆さんの少しでも楽しみや安心材料になればいいなと思って投稿頑張って行きたいと思います。3ヶ月坊主なので続くか心配だけど、、。笑

それでは、また次の記事でお会いしましょう!

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